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◆瀬戸山城周辺の史跡

赤穴氏

 戦国時代、尼子氏に従い、瀬戸山城の城主としてこの地を支配したのは赤穴氏一族でした。赤穴氏による赤穴荘の支配は、石見佐波家七代佐波実連の次男、佐波常連が赤穴荘に所領を得たことにはじまります。常連は赤穴姓を名乗り、瀬戸山城の築城に着手したといわれています。これを契機に赤穴氏はそれまで地頭であった赤穴紀氏(石清水八幡宮、赤穴別宮領の荘官として赤穴荘に下向した紀氏)に替わり地頭職として赤穴荘を支配して行きました。南北朝期には赤穴荘の大部分は赤穴紀氏の支配から佐波赤穴氏の支配へと替わっていたと考えられています。

赤穴氏家紋「並び矢」

 この後、赤穴氏は総領家である佐波氏との関係を保ちながら、次第に独立した領主という性格を帯びて行きました。戦国時代が始まる頃には赤穴荘における赤穴氏の単独相続を完成させ、赤穴家家臣団を形成していたようです。

 1518(永正15)年には出雲守護京極氏に代わった尼子氏と主従関係を結ぶとともに佐波家との往来を断っています。


 1542(天文11)年からはじまる大内氏の出雲遠征の際には尼子方の先方として奮戦した赤穴氏でしたが、1562(永禄5)年の毛利氏による出雲総攻撃の際には毛利氏と主従関係を結んでいます。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏は長門国、周防国の二国へ移封となり、苗字を「中川氏」と改名した赤穴氏もこれに従いました。

瀬戸山城の戦い

 戦国時代の中頃、中国地方では出雲国月山富田城(安来市広瀬町)に本拠を置く尼子氏と周防国山口(山口市)を中心に7ヶ国の守護を兼領する大内氏によって勢力が二分され、二者の間で覇権をめぐって一進一退の攻防が繰り返されていました。1540(天文9)年から尼子晴久は当時、大内氏の配下にあった毛利元就(安芸郡山城)を攻めましたが、これに失敗しました。

 尼子氏が一敗地にまみえると大内氏の富田城攻めがにわかに現実のものとなってきました。尼子氏が郡山城攻めに失敗し、富田城へ敗走してからちょうど一年後の1542(天文11)年正月、大内義隆は尼子氏の富田城を目指して山口を発しました。毛利元就をはじめ、石見・備後勢を合わせ、数万とも言われる大軍は石見国出羽の二つ山城に滞陣し、出雲国の入り口に位置する尼子方の堅城、瀬戸山城攻略の軍議を重ねていました。

 瀬戸山城に篭る赤穴氏には尼子氏の本城である富田城から田中三郎佐衛門率いる援軍が到着していました。城主の赤穴光清は城下を流れる神戸川を堰き止め、一帯を湖水化し、敵の侵攻に備えたと伝えられています。

瀬戸山城と戦場となった城下
瀬戸山城と戦場となった城下

 瀬戸山城攻めの幕は1542年(天文11)6月7日、大内方の熊谷直続によって切って落とされました。直続は、神戸川の堰を決壊させ、先功を立てようと手勢三百を引きつれ火を放ちながら城下に現れましたが、赤穴光清や田中三郎左衛門・吾郷大炊介により討ち取られました。

大内軍四万に対し、瀬戸山城を守る赤穴光清の軍勢は、尼子氏からの加勢を含め二千だったと軍記物は伝えています。
 赤穴勢は、熊谷との合戦後も出羽助盛、本庄経光ら大内方の諸将の攻撃を受けますが、地の利を得た巧みな戦術と勇猛な戦いぶりによってことごとくこれを退けました。

 7月27日、ついに陶隆房、吉川興経らを中心とする大内勢の総攻撃がはじまりました。吾郷大炊介、松原采女らの奮戦によって、大内方を自陣に押し戻してその日の戦いは終わったかに思われましたが、城主赤穴光清が流れ矢に倒れ、長い戦いに終止符が打たれました。

 赤穴城を落とした大内・毛利軍は広瀬の月山富田城へ進軍し尼子氏を囲みますが、離反する者が増え、出雲国からの撤退を余儀なくされて尼子攻略は大失敗に終わります。大内・毛利軍の尼子攻略の緒戦で、2ヶ月近くの大軍を足止めさせた瀬戸山城の戦いは大内・毛利軍の遠征失敗の大きな要因になったことは間違いありません。

 さて、尼子・毛利の戦いを記録した書物に『雲陽軍実記』というものがありますが、1542年の瀬戸山城の合戦の頁に次のような部分があります。
「然るに右京亮幸清(中略)鉄砲二十挺に弓を交え城の向かふ谷奥に伏せ置き(中略)味方難儀と見るとき、不意に横箭に入り、敵の跡より打っていでよ・・・」
「(前略)向かう小谷口より伏勢弓鉄砲を揃え立て横矢にうち立て射立てする程に・・・」

 赤穴方が待機させていた弓矢・鉄砲隊により大内・毛利方が攻撃を受けた様子が見え、『雲陽軍事記』は出羽助盛の軍勢が負傷したと伝えています。1542年といえば、種子島への鉄砲伝来の一年前です。真偽の程はわかりませんが、ある研究者によれば、この戦いで使われた銃は石弾を使用する粗製な物ではあったかもしれないが、鉄砲が戦に使われたことが最初に確認できる戦いではないかとも言われています。

毛利氏の侵攻

突根尾原の古戦場
月根尾原の古戦場

 1542年(天文11)、瀬戸山城を攻め落とした大内軍は大軍を油木(飯南町頓原)へ進め、およそ40日にわたって滞陣した後、1543年(天文12)、正月から尼子氏の富田城を攻撃しました。思うように富田城攻略が進まない大内方には、寝返る武将が相次ぎ、城を落とせぬまま全軍総崩れとなり山口へ敗走しました。

 陶晴賢の大内家への反逆、厳島の戦いを経た1560年頃、毛利元就は安芸を中心とした6ヶ国を支配するようになっていました。
 1560年(永禄3)、尼子晴久が死去すると、毛利元就は尼子攻略のため出雲国へ大軍を進めました。瀬戸山城では、毛利軍襲来を前に交戦か降伏かで評議が行われていました。「今、毛利の大軍を相手に戦っても利なし」との結論に達した瀬戸山城でしたが、尼子氏への忠義を貫くべきだと主張し、城を出て毛利方に戦いを挑んだ二人の武将がいました。烏田権兵衛勝定と森田左衛門勝経は一族らを引き連れ、賀田城や突根尾原を拠点に反乱軍を組織しました。毛利軍に攻撃を仕掛け、進軍をたびたび妨害しましたが大軍の前に烏田は討たれ、反乱軍も鎮圧されました。

烏田権兵衛勝定の碑
烏田権兵衛勝定の碑

 この間、すでに毛利氏の旗下となっていた瀬戸山城主赤穴久清は「人道の正路は彼にありて非義はそれがしにあり、忠義一途の両人の賢士を討つ事、無道と存じ」として反乱軍に対し討伐の兵を差し向けることはなかったといわれています。

 毛利元就は彼等主従を次のように賞したと『雲陽軍実記』は伝えています。

 「元就公暫く御思惟ありて、(中略)彼等が義は理の当然なり、自ら手を下して退治はなり難き筈、あっぱれ主従かなと称美浅からず(中略)右京介(久清)は古今の義者なり、森田、烏田は伯夷叔斉なり、斯様の人傑、味方に属しては末頼もしき事やと宣ひける」


赤名市街の形成

 戦国時代、赤名の中心は現在の国道54号沿いではなく後世、銀山街道と呼ばれる街道沿いの「古市」という所にあったと伝えられています。

 関が原の戦いの後、堀尾氏は出雲国へ入封しました。赤穴氏が毛利氏に従い長州へ移った後も、堀尾氏は瀬戸山城を重要視し、大規模な改修を加えています。さらに城番として松田左近将監吉久を派遣して国境を監守させました。この頃から赤名の街の中心は次第に水利の悪かったといわれる古市から現在の市街のほうへ移っていったようです。瀬戸山城の麓には侍屋敷があったと伝えられ、界隈を「殿町」と呼んでいたことが今も地名に残っています。「殿町」へ続く町なみは、古市から移転して最初に形成された市街ではないかと考えられており、現在も寺院が軒を連ね、古い街道の面影を残しています。

 近世、街道の宿場町として知られる赤名宿は、「殿町通り」西側の川沿いに形成された市街を中心としています。

殿町へ続く町なみ

殿町へ続く町なみ

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