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地図で辿る歴史と文化
◆その他の文化財

女亀山(めがめやま)


 女亀山は標高830m、飯南町の南部の広島県境に位置しています。山頂付近には西日本屈指の大径を誇るブナの自然林が残っている山として知られています。
 また、キエビネ・エビネ・ミヤコアオイなどの貴重な植物、ホソヒメギセル・モリヤギセルなどの希少な陸産貝類、ギフチョウ・フタコブルリハナカミキリなどの昆虫類の生息地及び自生地として良好な自然環境が形成されています。昭和62年には島根県自然環境保全地域に指定されました。

女亀山登山口 ミヤコアオイ
女亀山登山口
ミヤコアオイ

女亀山は人々に神聖視されてきた山でもあったようです。古くは「女神山」といい、「玉依姫」(たまよりひめ)が住む山として、この地域に伝わる「丹塗箭神話」(にぬりやしんわ)は伝えています。江戸時代の『芸藩通誌』には「池は頂にありて四時水涸れず、神亀これに居る。里人雨を祈るに杭を池中に立つと云ふ。」とあり、里人らによる雨乞いの祈願が行われた様子が伺えます。

 現在、女亀山は登山道が整備されています。山頂へはふもとから徒歩で1時間足らずで行くことができます。登山口から少し登ると「神戸川源流」の石碑を目にします。山から染み出した水滴が集まるこの場所は、飯南町・出雲市佐田町を貫流し出雲平野に流れ出て、日本海の注ぐ神戸川の始まりです。春には山頂への道でギフチョウの食草であるミヤコアオイを見ることができます。女亀山は中国山地唯一のギフチョウの発生地と言われています。姿の美しさ、蝶(成虫)となって舞う期間の短さから「春の女神」とも呼ばれるギフチョウはミヤコアオイとその仲間の植物しか食べないため生息地が限定され絶滅危惧種に指定されています。

 山頂に近づくにつれブナはその大きさを増し、ギフチョウの舞う姿を見ることができます。山頂には女亀山神社があり、玉依姫が祀られています。もともと山頂には赤名・布野・作木の村人がお祀りした神社があったといわれていますが、赤名・布野のものは現在、山麓に移されています。
 女亀山にすむという「玉依姫」が姿を変えた「春の女神ギフチョウ」に会いに来てみませんか?

神門川のはじまり ブナの巨木
神戸川のはじまり
ブナの巨木

スクモ塚古墳

  スクモ塚古墳は飯南町上赤名にあります。広島県との境にある赤名トンネルへ向かう国道54号からはこの古墳を一望することができます。墳丘の南側が大きく削り取られていますが、もとは直径およそ20メートルの円墳だったようです。内部の構造や副葬品などは不明ですが7世紀ごろに造られた地域の村落首長墓だったと考えられています。
 スクモ塚古墳にはいつのころからか椿の木が育ち、春にはたくさんの花が咲きます。地元ではこの古墳を「椿のもと」と呼んでいます。

スクモ塚古墳

墳丘に咲く椿
スクモ塚古墳
墳丘に咲く椿

平家伝説の地

 全国にはたくさんの平家落人伝説の地がありますが、飯南町谷の程原集落も平家にまつわる伝説の地として知られています。
 1885年(文治元年)壇ノ浦の合戦を最後に平家は滅亡しました。この合戦で平家方に平教経(平清盛の弟、教盛の次男)という人物がいました。教経は壇ノ浦の戦いで源義経を追い詰め、八艘飛びをさせて退かせるほど勇猛な武将だったと伝えられています。最後は源氏方の武将二人と共に海に身を投じました。

 程原には次のような伝説があります。
「平教経には教経の子を身ごもった奥方がいた。平家滅亡のおり、この奥方は源氏の追及を逃れ八人のお供の者と、中国山地を越え程原の地にたどり着いた。住人はこの姫を暖かく迎え入れ、ゆうな(「他人にしゃべってはならない」の意)御前と呼び、かくまった。程なく御前は元気な男の子を産んだ。父の教経に似て豪傑な青年に育ち、能登守程原入道教本と名のった。その後、長徳寺を建立し、集落の発展に力を注ぎ、母とともに幸せに暮らしたという。」

 程原入道には「米俵を矢の先に付けて場内に射入れ、兵糧攻めに苦しむ兵を救った」「大きな臼を片手で持ち4里先まで届けた」「牛の代わりに大きな鋤を引いて牛のいない農家を助けた」など、たいへんな力持ちだったという言い伝えも残っています。
程原集落は、塩谷川へ流れ込む程原川の最も上流にあります。程原川は塩谷川へ合流するまで狭い谷あいを流れるため、下流域に平坦地はなく、程原集落はまさに「隠れ里」といった雰囲気を持っています。現在でもこの集落には程原入道神社をはじめ遊那(有名)御前の墓、八人塚など、伝説にゆかりの場所がたくさん残り、伝説は地域の住民の方々によって語り継がれています。

程原入道神社
程原入道神社
八人塚
八人塚
遊那御前の墓
遊那御前の墓
程原入道の墓
程原入道の墓

赤穴(あかな)八幡宮


 赤穴八幡宮は飯南町赤名に所在しています。主祭神として別雷神(わけいかづちのかみ)、玉依姫(たまよりひめ)、健角見神(たけづぬみのかみ)、大鞆和気命(おおともわけのみこと)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)、帯中津彦命(おきなかつひこのみこと)を祀っています。
 社蔵古文書によると770年(宝亀元年)に現地に社殿を建立して松尾神社と称したとあります。1158年(保元3)の官宣旨(『石清水文書』)にはいわゆる出雲国八所八幡として「赤穴別宮」がみえ、少なくとも平安時代中ごろには「赤穴荘」が京都石清水八幡宮の所領となり、八幡宮が置かれていたと考えられています。

 さて、この地域には「丹塗箭神話」(にぬりやしんわ)という赤穴八幡宮(松尾神社)の創建にかかわる神話が伝えられています。玉依姫という女神が丹塗りの矢に姿を変えた大山咋(おおやまくい)という神に触れ別雷神という子神を生み、「松尾の森に宮処定めん」とお鎮まりになったというものです。この神話は「山城国風土記逸文」や『古事記』に同様なものがあり、古代畿内に栄えた賀茂族の出自を物語る神話と同一であることがわかっています。また、赤穴八幡宮に残る1556年(弘治2)の棟札には「八雲立出雲国飯石郡赤穴松尾庄金屋谷御鎮座以来(後略)」とあり、「赤穴荘」はもともと「松尾荘」と称されていたことがうかがわれます。これらのことから、八幡信仰がこの地に伝わる以前には別雷神、玉依姫、健角見命を産土神として祀る集団が存在し、農耕を営み「松尾荘」を形成していたのではないかと考えられています。このことは赤穴八幡宮の祭神に、松尾神社系の別雷神、玉依姫、健角見命のグループと八幡宮系の大鞆和気命、息長足姫命、帯中津彦命のグループの二系統に分かれることからも指摘されています。

  また、『赤来町史』は、松尾荘を開拓した「私たちの遠い祖先は、大和地方を出て瀬戸内沿岸をたどり、この地域に根をおろした古代賀茂族の一団であったと推定できる」と考察しています。

 はっきりした時期はわかりませんが、石清水八幡宮勢力の進出に伴って、赤穴別宮が併設され、「松尾荘」も石清水八幡宮の赤穴別宮領に転換して「赤穴荘」と呼び名を変えていったものと思われます。松尾神社の祭神も次第に赤穴別宮(八幡宮)に取り込まれていったと考えられています。
 1326年(嘉暦元年)、赤穴八幡宮は再建されてことが当時の棟札からわかっています。再建したのは「紀季実」という人物で赤穴荘の地頭を名乗っています。紀季実は赤穴別宮領の荘官としてまた、石清水八幡宮、赤穴別宮の神官として赤穴荘を支配していた人物でした。再建にあたり、奉納した木彫八幡三神像は現存し、国の重要文化財に指定されています。

 境内には、樹齢1000年を越えるといわれる、二本の大杉(大元杉とも夫婦千年杉ともいう)、銀杏と杉の連理、「丹塗箭神話」の史跡などを見ることが出来ます。

赤穴八幡宮
赤穴八幡宮
丹塗箭神話の遺構地
赤穴八幡宮
丹塗箭神話の遺構地

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