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飯南町の歴史の概略

ページID:0005324 更新日:2022年10月1日更新 印刷ページ表示

時代

原始から古代へ

 縄文土器をつくり、狩猟や採集を中心とした生活がおよそ1万年ものあいだ続いた縄文時代、飯南町でも、神戸川や女亀山・大万木山・三瓶山などの豊かな山々に支えられた縄文人たちの生活があったようです。
 三瓶山麓の縄文遺跡からは今からおよそ1万年前の土器が出土しています。以降、縄文時代の終わりまで各時代を通じて途切れることのなく確認されている数多くの土器は、三瓶山の度重なる噴火に遭いながら、この地に住み続けた人々がいたことを物語っています。
 また、東北地方で作られた土偶を持ち、隠岐島や九州産の黒曜石を使用するなど驚くほど広範囲の地域と交流をしていたこともわかっています。

下山

土偶(下山遺跡出土)
(写真提供:島根県埋蔵文化財調査センター)

 

 稲作が急速に日本列島に広がっていった弥生時代、飯南町の遺跡からも石包丁や鉄製の鎌が出土し、米作りが行われていたことがわかりました。穀物の安定的な確保が可能になったことによって集落の規模が拡大した様子を町内の集落遺跡からうかがうことができます。弥生時代後期の住居跡からは朝鮮半島製を含むたくさんの鉄製品が出土し、弥生時代の鉄生産・加工に関して貴重な資料となっています。

長者原

長者原古墳(飯南町下赤名)

 

 3世紀後半、大和を中心に大きなお墓が造られはじめました。古墳時代の到来です。飯南町では古墳時代後期に造られた古墳を中心として7基の古墳(現存するもの)が確認されています。三瓶山麓の地域では古墳時代終末期の7世紀にかけて集落が増加し、50棟近くで構成される大きな集落もあらわれました。
 古墳には、これら村落首長的な立場の人々が葬られていると考えられています。

古代

  飯南町に関する最も古い文献資料は奈良時代に成立した『出雲国風土記』です。これによると現在のほとんどの町域は当時の来嶋郷と波多郷に属し、来嶋郷の中心である郷庁と正倉は野萱(飯南町野萱)付近にあったと推定されています。
 8世紀に出された墾田永年私財法により荘園制が全国に波及するのに従い、来嶋郷内においても12世紀初め頃には、石清水八幡宮の別宮である赤穴八幡宮の社領が赤穴荘として荘園化していたことがわかっています。

風土記

出雲国風土記(日御碕神社本)
(写真提供:古代出雲歴史博物館)

中世

 鎌倉時代中期、来嶋郷内の荘園を支配していた人物に赤穴太郎(赤穴荘)、来嶋松助入道(来嶋荘)を見ることができます。彼等の系譜を引く人物による来嶋郷の支配は14世紀中ごろまで続いたと考えられています。
 南北朝の動乱を機に赤穴荘へ進出した佐波氏(石見国邑智郡)は、次第に在地性を強め、赤穴氏を名乗り、尼子氏に仕えました。中国地方を舞台とした大内氏、毛利氏、尼子氏などによる勢力争いは、三国の国境に位置するこの地域をたびたび戦場としました。1542年からはじまる大内氏の出雲遠征の際には、尼子方の赤穴氏と大内軍との間で瀬戸山城を舞台に攻防戦が繰り広げられています。 

城跡​瀬戸山城跡

近世

 1684年(寛文6)、奥飯石24ヵ村は松江藩から分封された広瀬藩の飛び領地となり、頓原村(飯南町頓原)には陣屋が置かれました。飯南町域の村々のほとんどは広瀬藩領となりましたが、3村(飯南町谷の塩谷村・井戸谷村・畑田村)は石見銀山領の幕府直轄地となりました。
 江戸時代、銀山街道が通過する赤名宿と周辺の村々には石見銀山で採掘された銀・銅を次の宿場まで荷継する助郷役が課されていました。この課役は村人にとってとても重く、荷継負担軽減を求める訴えがたびたびおこされました。

古民家​銀山街道(下赤名)

近現代

  明治21年の町村制公布により、明治22年4月、飯南町域の2つの町と9つの村はそれぞれ合併し、赤名村、谷村、来島村、頓原村、志々村の5つの村となりました。
 江戸時代から明治時代にかけてこの地域の重要な産業の一つが製鉄業でした。砂鉄と木炭によって鉄を作る「たたら製鉄」が大規模に行われ、多くの人々が一連の作業に従事しました。現在でも製鉄関連の遺跡や、砂鉄を採取するために行われた「かんな流し」によって改変された地形を町内各所で見ることができます。

たたら​明治時代中頃まで稼動した弓谷たたらの地下構造

 昭和28年に施行された町村合併促進法をきっかけに全国自治体の合併が進む中、昭和32年には赤名町(赤名村と谷村が合併)と来島村が合併し赤来町、同じく32年に頓原町と志々村が合併し頓原町が誕生しました。
 さらに、平成12年ごろから始まったいわゆる平成の大合併の流れを受け、平成17年1月1日、赤来町と頓原町は合併し現在の飯南町が発足しました。