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奥飯石と呼ばれる飯石郡南部の地域は中国地方でも屈指の積雪地帯として知られています。雪とともに生きてきたこの地域では、厳しい自然環境の中で、独特の民具が生み出されました。
飯南町を中心に中国山地の積雪地帯で製作・使用されてきた「雪」に関する民具150点が昭和43年に国の重要民俗文化財の指定を受けました。この民俗資料は当時の頓原町在住であった勝部正郊氏が民具の重要性を訴え、昭和30年代から収集にあたられたもので、指定後の昭和45年、当時の頓原町へ寄贈されました。現在は飯南町民俗資料館に収蔵・展示されています。
これらの神像は1326年(嘉暦元年)に「大佛師山城國鏡覺」によって制作され、赤穴庄の地頭であった紀季實によって赤穴八幡宮へ奉納されたことが、八幡神坐像(中央)の胎内から発見された木札からわかっています。
鏡覺は、これらの神像の作風から平安時代後期以降、京都を中心に仏師の一派を築いた「院派」の流れを汲む人物ではないかと考えられています。この時代、中央の仏師の手による神像が地方に残ることは稀で、また制作された神像の年代・作者・結縁者が明らかになっている点でさらに貴重な事例であるといえます。これらのことから昭和34年に国の指定を受けています。
木造 息長足姫神坐像
鎌倉時代 像高44.2cm
ヒノキ材の寄木造。髪・眉・目に墨、唇と結髪の紐に朱が施されている。
木造 八幡神坐像
鎌倉時代 像高72.4cm
社伝では大鞆和気命とされる。カヤ材による寄木造。着色は、冠・頭髪・眉に墨、唇に朱がわずかに残っている。唇の下と顎に一ヶ所ずつ小孔があり、当初は植毛があったと考えられる。
木造 比売神坐像
鎌倉時代 像高44.8cm
ヒノキ材による寄木造。髪・眉・目に墨、唇と結髪の紐に朱が施されている。頭髪や着衣の装飾、その面貌には息長足姫像よりも若々しさが表れているという。
オオサンショウウオは特に指定地域を定めない特別天然記念物として昭和27年に国の指定を受けています。日本と中国、アメリカ大陸の一部にしか生息しないとされる世界最大の有尾両生類であり、数百万年以上もの昔からほとんど進化していないことから「生きた化石」とも呼ばれています。
日本では岐阜県以西の本州から九州の大分県あたりまで分布しているとされ、流れが緩やかな清流を生息地としています。飯南町においても神戸川上流域を中心に生息が確認されています。
飯南町のほか雲南市掛合町波多、雲南市吉田町民谷の地域、すなわち17世紀末から広瀬藩の飛び領地となっていた地域に伝わる神楽を総称して「奥飯石神楽」と言います。
この神楽の起源は定かではありませんが、16世紀初めの頃には行われていたようです。
奥飯石神楽は出雲神楽と石見神楽の中間的な要素を持った神楽といわれ、七座・三番叟・能舞の三部構成となっています。明治期までは神事として行われていた七座は奥飯石神楽の中でも最も重要な部分とされ、また、古くからの伝統を継承しており貴重であるため昭和36年、島根県によって無形民俗文化財に指定されました。
七座(剣舞)
三番叟
能舞(八頭)
飯南町下来島に所在するマンシュウボダイジュ。
樹高およそ25メートル、幹まわり5.5メートル、樹齢200年以上といわれる大木です。天然自生のマンシュウボダイジュがこれほど巨木になるのはたいへん珍しく、昭和39年に島根県の天然記念物に指定されています。
由來八幡宮の頭屋祭行事は毎年10月1日に行われる「注連下ろし神事」から11月8日の「頭渡し神事」までの一連の行事を指します。
一連の行事を支えるのは「頭屋」と呼ばれる地域ごとの「名」の集団であり、この「名」は古代にさかのぼる行政区画の単位に由来するものとされています。
また、「注連下ろし神事」「抜穂祭」と続く神事には稲籾そのものを神実とする穀霊信仰の形が継承されています。さらに「姫の飯神事」において、巫女姿の神職が担い竹に稲穂をかけて舞う舞姿は古代における田の神出現を表したものと考えられています。
このように古代にさかのぼる「名」という単位を基礎とした頭屋祭行事が、穀霊祭祀の伝統を現在に継承していることは大変重要であるとして平成6年に島根県の無形民俗文化財に指定されています。
御神幸のはやしこ