ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本文

展示品紹介(つづりぼうし)

ページID:0005384 更新日:2022年10月1日更新 印刷ページ表示

つづりぼうし

 中国山地の積雪地帯では、一般的な「蓑」や「かさ」のほかにも、いろいろな防雪・防寒具が使用されてきました。
「赤げっとう」(舶来物の赤色の毛布)や「ばら」(舶来ものの薄い毛布)と呼ばれるものや「よのぶろしき」(紺染め木綿の大風呂敷)なども頭から被り防寒用としました。

No..62

つづりぼうし(No.62)

縦44cm・幅32cm・タレ長さ46cm
木綿糸を経糸、古い布を細く引き裂いたものを緯糸とし機で織った織布に木綿布のタレをつける。江戸時代に飯南町頓原で製作されたもの。

植物の繊維などで作られた帽子に比べ重量感はあるが風雪と寒気の中ではたいへん重宝な帽子だったという。

 

(右上No.65 左下No.66)

ずきん(右上No.65 左下No.66)

長さ105cm・幅47cm(No.65)
長さ108cm・幅42cm(No.66)いずれも素材は「ちりめん」で明治後期に製作されたもの。

女性が防寒用に用いたもので、中央の頭に当たるところには白い布を縫い付けてあるものが多い。頭から被り、目だけを出す形で顔をくるみ、首の後ろで結った。

 

(右No.76 左No.77 中No.79)

てつまご(右No.76 左No.77)、てぶくろ(中No.79)

縦23cm・幅15cm、材料はワラで明治40年飯南町頓原において製作(No.76)
縦25cm・幅13cm、材料はワラと木綿布で明治時代後期飯南町頓原において製作。(No.77)
縦22cm・幅10cm、材料はラシャで邑南町(旧瑞穂町)において製作(No.79)

雪中の荒仕事用、また、外出時の防寒用として用いられた。「てつまご」とは手の「つまご」という意味で、足の先の保護、防寒用につける「つまご」というものからその呼び名がつけられた。

豪雪の思い出

 昭和38年1月の初旬から降り始めた雪は、それこそ夜となく昼となく、一時も休むことなく2月まで降り続き、未曾有の豪雪となりました。来る日も来る日も、灰色の空から大きな雪片やサラサラの粉雪が黙々と降りそそいでいた情景が今でも目に浮かびます。

 この頃には除雪車もなく積もるにまかせて、交通には随分と苦労がありました。とりわけ、滝谷・牛ヶ谷・志津見坂・成川等は、なだれの危険があり迂回路の仮橋がいくつか神戸川へ架けられました。

 藤の屋の脇から仮橋を渡り、下迫前の道路に出て下原の前の田を通り、向こうへ渡り、小学校の下手の道路へ出ました。それが出来る様になるまで小中学校は休校で、有線放送を通じて授業が行われ、自宅学習でした。

 その頃、私はさつき保育所に勤めていましたが、園児の一人が急性盲腸炎になり、親戚、近所の方14、5人で交代で担架をかつぎ、夜を徹して三瓶原を越え、降りしきる雪の中を、翌朝、池田へようやくたどり着き、そこから迎えのジープで大田国立病院へ運ばれて一命をとりとめ、4月には元気で学校へ入学し、うれしかったことを昨日の様に覚えています。

 八神でも妊婦の方が頓原へ運ばれたと聞きました。交通途絶状態の中で医療は一番の不安と悩みでした。

 各商店の商品もすっかり底をつき生鮮食料はもちろん、缶詰類・調味料・日用品のほとんどが品切れとなり、そんな時、ヘリコプターで角井と八神へ救護物資が落とされ避難家族へめざしや乾パンが配給になりました。他地方の方からの心尽くしの慰問の小包がとてもうれしゅうございました。

 なだれの危険のある家へは、隣近所、総出の応援で流れ作業をしました。山の雪をトタンで流して除雪をされました。

 1月2日は、3メートルを越す豪雪に、全町民あげての雪との戦いでした。当時はとても長くつらかった毎日が、今思うと不思議に一抹のなつかしさを覚えるのも、過ぎ去った20年のせいでしょうか。それとも雪にいだく郷愁とでも申しましょうか。

                          木村 富美子
                          (『ひこばえ』1984 より)

昭和38年2月 ​             昭和38年1月

昭和38年2月 角井地区へ投下された物資         なだれ防止の除雪作業 昭和38年1月