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展示品紹介(いのしし槍・うさぎあみ)

ページID:0005385 更新日:2022年10月1日更新 印刷ページ表示

いのしし槍・うさぎあみ

 「冬ごもり」という言葉があります。深い雪に閉ざされた冬の間、この地域の人々は家居を余儀なくされました。冬ごもりの合間に行われる狩猟は「食料調達のため」と同時に、これといった娯楽のなかった頃の楽しみの一つでした。

No..146

いのしし槍(No.146)

ほこさき30cm・柄130cm・ほこふた35cm
鉄製の穂先に樫材の柄、竹材のふたが付く。江戸時代に製作されたもの。

猪や鹿の通り道にたむろして待ち、槍を突き出す力と獲物が走ってくる速度を利用して突き止めるという。山へは槍の穂先だけを持って行き、柄は現地調達する場合もある。「四足物」といわれる獣肉食が禁じた時代でも猪の肉は「山くじら」と称して食料とした。

 

No..150

うさぎあみ(No.150)

全長21.5m・幅1月6日m材料は木綿、麻糸。
明治15年飯南町頓原で製作されたもの。

尾根に網を張り、「追い子」と呼ばれる人々が兎を網に追い込み捕獲する。網を張る場所、獲物の追い詰め方など的確な判断には長年の経験を要した。夜は獲物を食材にいろり端であたたかい鍋を囲み、昼間の活躍ぶりを語りあった。

ツキノワ熊猟

 小生の若い頃は古参のハンターに付いてやった。雪が降り出すと、熊が夏の間、山をかせぐ折に、この冬は此所で冬眠しようと定める。冬にはそこへ遠方に出ていた熊が帰って冬眠する。その足跡を見つけに奥畑、宇山、琴引山、来島の小田奥、備後高野山、遠くは仁多の鯛の巣山まで出て行き足跡を見つけ、入込んだ山の周囲を2日おきに2週間見て廻り、熊が寝込んでからその山の中を片小口からさがして、寝ている穴を見つけ穴の中に居るのを猟銃にて射止めたものだ。穴から出した熊の前で古参のハンターが「こえ松」に火を付け、持っていた塩を振りかけ、なにか詩文をとなえておられた。それが終ると縄を出して引帰ったものだ。その頃は罠でやる人はいなかった。近頃のハンターはそんな事はしない。雪の上にて足跡を見たなら、入った山を探し、起きていようとおかまいなしだ。すぐに兎を追う方法とほぼ同じやり方で追う。寝込んでいないのだからすぐ飛び出すので待場に来たのを撃つのである。熊は追方に従順で小生等が思った方向に飛んでくれるから獲りやすい。猪は思った様に飛んでくれないのでミスが多くて困る。追う人は一段と声を大きくして数を出さないと待場に早く行かないので、追い出す人は大きな声の人で足の早い人が良い様に思う。穴射をする時は寝込んで居るので平素の姿でなく「まん丸」に見え、急所の場所が見えない。頭を股の中に入れて居るので心臓部も見えず困る事がある。足を持ち上げて頭の部分を見分ける程の勇気がなくては完全な部分を見出す事が出来ない。と言うのは、熊の「胆のう」は高価な薬として取扱われるのでこの部分を撃っては価値がなくなるので慎重にやらなければならないからである。寝込んでいるからと思ってとんでもない所を撃てばすぐ目をさまして人に襲いかかるので、よほどの注意を必要とする。今頃の人は前にも書いた様に穴射をやらないが、小生が昔の経験者についてやる頃は5~6人のハンターが一緒に行き、古老のさしずで昔より熊の入る穴があるので見て廻り、指揮者と離れた所で熊を見つければ一人で射って、山の高い所へ上り大声で知らせて集まり、儀式をすませて持ち帰ったものである。

 その「胆のう」で有るが、「三次」に商人がいたのですぐ手紙を出し買いに来てもらっていた。それ迄に解体していたら、だめであった。だから解体するのは1週間後であった。近頃のハンターは獲れたら、その日、または1日後に解体してしまう。今頃、毛皮を製品にすれば、30万円位は早い。個人が持つことはない。昨年末、掛合町柄栗にて獲ったのも個人は引取らず、県立公園のふれあいの里の方に収まる事になった。「胆のう」は昔程に高く買う人がないのでまだ保管してあると思う。

 服装は小生が始めた頃は「蓑」と「草鞋」のいでたちだったから軽装とはいいがたかった。近頃は軽装行動にも充分なるが、鉄砲だけは重い。安全性は充分である。使用する弾丸はスラグ弾と言って弾丸自体に溝が切ってあり、銃口を飛出せば空気の圧力を受け弾丸が回転して飛ぶので威力が大きい。昔は丸弾丸なのだし火薬も黒色火薬で今の無煙火薬とは威力も違うから効果も違う。だから以前は近くで撃つ事になる。昔の人は山刀を必ずの様に持っていた。今の人はナイフで山刀に匹敵するものではあるが、持つ人もいる。少数の人ではある。昔はたいまつの代わりになる「こえ松」を小さくして持っていた。遠方に行くため日が暮れることは毎度の事だから誰もが持っていたものだ。食料にしても同じく、沢山背負って行った。熊猟

 熊を捕獲したなら分配になるがこれは昔も今も変わりはない。参加者平均で有る。人数が少ないのでもらえる事が多かった。もらったのを売る人もあった。今は参加者が非常に多いから、同じ目方の物を獲っても量は少ない。自家風味をする知人や、ぽん友に味を見せる人もある。

 山の神への信仰、小生の若い頃、古老の行っているのを見た所は前に書いた様に「こえ松」を焚いて塩を散く。他に山の陽地にて獲った時は熊の左耳を切って山の神に供え、陰地で獲った時は右耳を切ってそなえていた行事を見ている。今の人はそんな事はしない。獲れた所へ集合してすぐ持ち出す段取りをする。

 今は獲れた事を無線(トランシーバー)で知らせるから集合も早い。追い初めて飛び出た事、どの方向に行っているとかを知らせるから、待っている者は武者震いをする者、いくらか安心感を持つ者が出る。熊狩りに必要な事は、老ハンターの言われる事を良く聞いて行うべきである。なんとしてもあまたの熊に対しての経験者である。何もよく知っていて、山の様子にしても熊の行動する道にしてもどこの穴など。今のハンターは言論自由とかがあってすべての猟に発言が多すぎる。だが、こと熊に対しては余りない。小生は55年間の狩猟をして来て思うことは数多い。今の人は熊に対する経験者がなく、最近の獲れたのには参加者は有るが昔からのには参加はないのであまり発言がない。それで小生がこの様にやりなさいとやって来た。なんとしても個人主義はやらない事だ。やりすべりが多い。

 昔より言い伝えの熊を薬として使用された事に、胆のうの事は前に書いたが、黒焼にしたものは神経痛・頭痛に良いとか聞いていたが使用したのは見た事がない。脂肪はヒビ・アカギレに塗っていた。火傷にも良い。この事はこの地方でやって来たし、今もやっている。足の骨を粉末にして軟膏とし、トゲのささった所に付けていれば浮上らせて抜けると言われてきた。頭の骨についても聞いてはいたが、実行にはいたらず。

 小生狩猟は20才より始め、現在に至っているが熊について、今日はやられたかなと思った事が3回ある、その内の1、2を書いて見よう。

昭和28年1月14日、来島県有林にて4人連れで兎獲りの帰りに大きな「ませ」に出合った。その中に狸が居はせんかと1人が棒を持って穴の中をつついた。小生、そのそばで狸が出れば射つかまえにして居た。つつく途端、中でうなり声が聞える。これは熊だと思ったから実弾に入れ替えて見ていた。つついた人は驚いて逃げてしまう。やがて出て来たのは大きな熊である。小生のいるのを見るや立上って来た。2m位の所である。弾丸は一発で後の出ない単発銃で、急所でなければやられてしまう。月の輪が目の前だ。しかも熊は小生より上に居る。大きな口をあけた。今だと単発銃の引鉄を落とす。弾丸は月の輪より後頭部へとぬけた。一段の唸り声とともにその場にくずれて大きな息とともに血が吹き出る。やったりと次弾に入替える。襲う様子がないので見ていれば、うごいて下の谷に落ちかける。落としては大変と鉄砲を側に立て、熊の首をおさえて3人を呼べど来てくれない。熊はやはり動いている。大きなやつなので下に落ちかけて仕方がない。何をして居るかと大声をすれば、穴をつついたのが来て手伝う。縄を出して前足を結わえ、上の木にくくり付けやっと落ちるのが止まった。もう大丈夫である。鉄砲の弾丸を抜いていると、お前はえらいことをするのーと、はやし立てた。これも先輩に仕込まれた行動の一つである。重い熊なので他に兎を2つずつ背負っている事で、明日、人をたのんで取りに来る事にして、明日各自の倅を連れ、倅のない2人は人夫を2人頼みて持ち帰った。28貫2百匁の大物であった。

 もう一匹の危険があったのは昭和39年12月11日頓原町奥畑神田奥での事。雪が降りて熊がまだ冬籠りをしてない時、腹が充分に満てていなかったであろう。家の上に渋柿が鈴なりになった柿を取りに出て足跡を見せた。知らせにより、押っ取り鉄砲ではせ参じ、5人の鉄砲と勢子が8人で山を廻したれば、居り場がわかり、待ちをはって追うことになった。銃砲の方は小生1人が熊の経験者で、他は皆未経験者である。皆が怖がってかんじんな所へ行こうと言わない。肝心と思う所へ小生が立った。小生の家の近くに居る景山という初心者がついてきており、小生が立つ前の谷間に通る所があるので連れてあがり、撃ちはずせば少しも動くな、動くと跳んでくるからと言い聞かせて上の待ち場についた。やがて追い出した。しばらくすると谷間で景山が一発撃った。上から見れば少しも動かない。五分あまりすると手を上に振る。来たなと前を見ていると藪が動く。やがて動かなくなった。すると隣の待ち場から別木こっちだこっちだとの声。しまったと裏をのぞけば、もう百米も谷間を上に来ている。もう小生が撃たなければやる人がいない。照準を付けて一発やった。パッと背中より血のふき出しが見えた。やったなと思うとくるりと後返りをして小生の方へ来る。即死ではない。だいぶん上へ行っていたので下りであるから早く近づく。しまったとスライド銃であるから、カチャカチャとやらなければならないのを、熊ばかり見ておったので射殻が出ていない。次がくり入れられない。手でつまむけれど滑って出ない。熊は近づいて私を上よりおおう形になった。そうだ殻をつぶせと頭にひらめいた。咄嗟の行動なり。指で殻をつぶし小指を入れてはね出し、スライドを閉じた。また、2米の上で立ち上がった。周囲の勢子は皆見ている。手負いの熊であり一段と動作が激しい。銃が肩に付くや銃声となった。心臓への撃ち込みである。一声うなると小生の足元へと倒れ、前の谷へころころと落ちていった。周囲の勢子が一斉にやったやったと大声を出していた。今日はオヤジやられたなと思って見ていたそうである。今日までに14頭の熊取りに参加しているが自分が射止めたのは6頭のみで、この地方に数が少ないことが言える。

別木 清行
(『頓原町民俗資料館解説書』第5集「雪の文化」1988 より抜粋)