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その他文化財(1)

ページID:0005466 更新日:2022年10月1日更新 印刷ページ表示

その他文化財

塚原古墳

 飯南町野萱の塚原にあり、国道54号から全景を望むことができます。全長およそ20メートルの前方後円墳で古墳時代終わり頃(7世紀)に造られたと考えられています。
 石室の石材等が一部露出していますが、前方後円墳の原形をとどめており、築造当時の様子をうかがい知ることができます。後の奈良時代、この地域は来島郷の中心であったといわれていますが、塚原古墳は古墳時代に来島周辺を支配した首長のお墓であると考えられています。

 

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塚原古墳(1)                      塚原古墳(2)

由來八幡宮

 由來八幡宮は飯南町頓原に所在し、主祭神として誉田別皇命(ほんだわけのみこと)、足中彦皇命(あしなかひこのみこと)、気長足姫皇命(おきながたらしひめのみこと)を祀っています。
 源頼朝は鎌倉幕府開府後、鎌倉鶴岡大蔵山のホウの木を使って彫刻した神像をご神体とし、出雲国に八社の八幡宮を祀ったとされ、由來八幡宮はその第四社といわれています。
 社伝は、源頼朝の命を受けた田槙安房守が1196年(建久7)に社地を選定し、同じく1207年(建永2)、出雲国守護職佐々木義清によって神殿落成が行われたと伝えています。

 また『由來八幡宮明細帳』には
「当社は石清水八幡宮の別宮なり。佐古に鎮座ありしを文永二年地頭三善久清、代官神田三郎右衛門をして神殿を現在地に移転し、神主十郎右衛門久清遷座奉仕」
とあり、1265年に佐古(現在の迫地区)から現在の社地へ移転したと記録しています。現在、佐古(迫)には旧社地として大田八幡宮が祀られ、例祭には由來八幡宮からの御神幸が行われています。

 近世に至り1666(寛文6)年、松江藩から広瀬藩が分封されてからは広瀬藩の祈願所となり年間の祭費及び営繕費の支弁を受け、例祭には藩主の代参以下藩吏郡役人等の参列を例としていました。

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 由來八幡宮には「注連下ろし祭」から始まり、「姫の飯(ひめのえ)神事」「頭渡し神事」にいたる一連の特殊な例祭行事が伝承されており、「由來八幡宮の頭屋祭行事」として島根県無形民俗文化財に指定されています。特に「姫の飯神事」において聖なる巫女が担い竹に稲穂を掛けて舞う姿は他所ではほとんど見ることの出来ない古代における田の神出現の様相を具現しているとして特に貴重とされています。「頭屋祭行事」は八幡信仰がこの地にもたらされる以前の素朴な穀霊信仰を伝えるものであり、『由來八幡宮明細帳』に載り、現社地に八幡宮が移転する前から鎮座していたといわれる多倍神社につたわる神事であったと考えられています。また、古代にその起源を持つという「名」という土地の区画単位を基礎にして次の年の頭屋を決める「頭渡し神事」や境内の樹齢千年ともいわれる大杉からも伝統の深さをうかがい知ることが出来ます。
 「由來八幡宮の頭屋祭行事」は、毎年11月7日、8日の例祭日を中心に執り行われています。

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飯南町民俗資料館

 飯南町民俗資料館は昭和43年に国の重要民俗文化財の指定を受けた「奥飯石及び周辺地域の積雪期用具」を収蔵・展示することを目的に昭和45年に開館しました。

  「奥飯石及び周辺地域の積雪期用具」は飯南町を中心に中国5県の積雪地帯で古くから使用されてきた民具で「雪かき用すき」「雪ぐつ」「雪輪」など150点が国の指定を受けています。このほかに補助資料として73点、また、この地域に伝わる花田植用具や農業関連の民具なども多数展示しています。

 「雪」をテーマにした民俗資料館は全国でも珍しく、昭和32年から収集を開始された民具は開館から40年近く経過した現在、収集することが不可能になっているものばかりで、たいへん貴重であると言われています。

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広瀬藩陣屋跡

 飯南町頓原の国道54号沿いにある頓原小学校跡地には広瀬藩の支庁である郡本が置かれていました。
 江戸時代、飯南町を含む奥飯石24ヵ村は広瀬藩領となっていました。広瀬藩は郡奉行を置き地方の支配を行っていましたが、飛び領地であった飯石郡には代官を派遣していました。

  奥飯石24ヵ村の郡務をつかさどった郡役所である郡本は飯南町頓原に置かれました。『飯石郡誌』には、1832年(天保3年)に郡本を「付近の稲荷社東南に移せり」とあり、当時の様子が次のように記されています。
 「其郡衙は南面して門あり塾あり、左方に両掖あり右方に籾倉あり、溝水前を流れ竹叢後を圍む、(中略)廣瀬藩は此の別館に郡代官以下を勤番せしむ。代官は其別館の左掖省に住居し登廰して郡務を司る。(中略)右郡屋には下郡與頭出勤して庄屋以下を統へて町村の政務を總ぶ。」

 郡本には本庁の建物のほか、代官が政務を執る別館や住居があったことがわかります。年に一回は広瀬藩から郡奉行一行の来訪の際は、24ヵ村の庄屋などおよそ100名が集まり村々の状況を報告したといい、奥飯石の政治経済の中心として栄えました。
 明治時代になり、郡本の建物は明治政府のものとなりましたが、住民の努力によって払い下げられ、頓原小学校として使用されました。小学校があったこの場所は「桜が台」と呼ばれおり「丘の校」へ通った児童の姿が校歌にも歌われています。「桜が台」は桜が咲き誇る丘の上に郡本があった時代の面影を今に伝えています。

※1 広瀬藩領分知後の1684年(貞享元年)、広瀬藩領となった飯石郡南部の村々。

※2 塩谷村、井戸谷村、畑田村(現在の飯南町谷)は当時、石見国邑智郡に属し石見銀山領となっていた。1684年(貞享元年)の分地当時は広瀬藩主近栄が越後松平家の内紛に連座 し、石高を減じられていたため、奥飯石の24ヵ村の一万五千石が完全に広瀬藩に復帰したのは1694年(元禄7)から。

(1)​ 明治初期の頓原小学校

 

沖ノ郷(おきのごう)山

 飯南町都加賀には後鳥羽上皇の伝説が残っています。1221年の承久の乱の後、後鳥羽上皇は隠岐の島へ配流になりました。上皇は「京都から明石の浦を経て美作と伯耆の境を越え出雲大湊へ、そして隠岐へ向かった」(『承久兵乱記』)とされています。しかしこれとは別に長井浦(三原市糸崎港)から吉舎、庄原、高野を経て飯南町を通過後、美保関(出雲大湊)へ向かったという伝承も残っています。
 沖ノ郷山は飯南町都加賀にある標高957メートルの高山で、晴れた日には頂上からは東に大山、西に三瓶山、北には島根半島、日本海を一望できます。

 隠岐に流される途上の上皇一行はこの山に登り、これから行く隠岐の島を眺め、従者の者たちは上皇をお慰めしたと伝えられています。現在の「沖ノ郷」という名称は、上皇が訪れた際の故事に由来する「隠岐の望」(おきのぼう)から名づけられたと言われ、上皇にまつわる地名として「隠岐原」(おきはら)「国王原」(こくうばら)「殿居」(とのい)などが現在でも残っています。
 沖ノ郷山は登山道が整備され、駐車場からおよそ90分で登ることができます。麓には尼子復興戦討伐に向かう毛利氏が通過した「かす坂峠」があります。頂上には案内看板・休憩所がつくられ、休日を中心に登山者が増えています。

おきのごう