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出雲国風土記にまつわる史跡

ページID:0005550 更新日:2022年10月1日更新 印刷ページ表示

出雲国風土記とは

 出雲国風土記は733年(天平5)につくられた出雲国の地誌です。今からおよそ1300年前の奈良時代、当時の政府は全国の国々に対し、各国の地理や産物、地名の由来などを調査し、報告するよう命令を出しました。当時、60以上あった国々は「風土記」をつくって報告したと考えられていますが、現代に伝わっているのは5カ国の風土記のみで、完全な形で残っているのは出雲国風土記のみです。

 出雲国風土記には当時の道や役所の位置、距離などがとても詳しく、正確に掲載されていています。同時に出雲固有の神々が活躍する神話や地名のいわれ、また、古代の人々の暮らしぶりなども垣間見られ、当時、出雲国に生きた人々の様子や考え方などを知ることができます。
 飯南町にも出雲国風土記に掲載されている地名や神話がたくさん残っています。私達の町の山や川の名称も千年以上もの昔からここに暮らす人によっていい伝えられ、それぞれにいわれがあるということはとても貴重なことだといえます。

①

『出雲国風土記』
(日御碕神社本)表紙
写真提供:古代出雲歴史博物館

木見野・野見野・石次野

「野見 木見 石次の 三野 並びに、郡家の南西四十里なり。紫草あり。」

「野」は当時、樹木の少ない草山を指し示す言葉でした。草山に育つ草を牧草として利用し、また畑地ともしたと考えられています。現代風にいえば里山といったところでしょうか。

 野見野は現在の飯南町上赤名呑谷の山とそれに続く周辺の平野をさしていたようです。
『日本書紀』によれば垂仁天皇の代に、出雲国から召され、大和国の当麻蹴速と力くらべをして勝ち、天皇に仕えた野見宿禰という人物がいたと記されています。宿禰はこの力くらべをもって相撲の元祖といわれ、また後に殉死を廃し埴輪の制を提案した人物として知られています。出雲国の野見宿禰は土地の名である「野見」を冠した出雲臣の一族だったのではないかと考えられています。古代出雲の剣闘士は野見の地に暮らしていたのかもしれません。

 木見山という山が飯南町下来島にあります。木見野はこの山周辺をさしているようです。現在の来島ダムのあるあたりになります。

 石次という地名は現在も飯南町下赤名集落の名称として残っています。石次地区には今石神社という神社があり、イイシツベという神がこの地域の開拓に用いたとされる石鋤がその御神体として祀られています。今石神社を中心として磐すき川(現在の赤名川)沿いに開けたこの地域は山間部においては比較的広い平坦地が存在しています。出雲国風土記に石次野と記され、またイイシツベが巨大な石の鋤を用いて開拓したと呼ぶにふさわしい景観を見ることができます。

 紫草。出雲国風土記がとりあげて記すこの植物は「ムラサキ」と呼ばれて万葉集にも多く登場し、当時の人にとってとても特別なものでした。
 紫草の根は染物の原料や漢方薬として使われ、出雲国からも朝廷への貢物として献上されていました。華やかな平安絵巻を彩る殿上人の装束を染めた紫も飯南の「三つ野」で集められたものかもしれません。
 紫草はムラサキ科の多年草で6月~7月に白い小さな花をつけます。標高400m~500mの高地で夏涼しく、水のきれいな地域に育つといわれる紫草の生育環境は飯南町にぴったりのようです。大海人皇子がそっと手を振った「紫野」とおなじ光景が「三つ野」にも広がっていたことでしょう。

① ③ ②     

            紫草           野見宿祢と・当麻蹴速の相撲を描いた
                           『芳年武者無頼 野見宿祢・当麻蹴速』
                           (古代出雲歴史博物館蔵)

 

琴引山

「琴引山。郡家の西南三十五里二百歩なり。高さ三百丈、周り一十一里あり。古老の伝えに云へらく、此の山の峰に窟あり。裏に所造天下大神の御琴あり。長さ七尺、廣さ三尺、厚さ一尺五寸あり。又、石神あり。高さ二丈、周り四丈あり。故、琴引山と云ふ。鹽味葛あり。」

 琴引山は飯南町の東側に位置し現在でも琴引山と呼ばれています。
 風土記によれば、所造天下大神、つまりオオクニヌシの琴が山の窟にあるからこの山を琴引山と呼ぶようになったと古老は伝えています。
琴山でなく琴引山としたのはオオクニヌシがこの山で琴を引く姿を当時の人は意識していたあらわれなのではないでしょうか。琴は古代において神の言葉を聞く重要な祭器でした。出雲大社と同様にオオクニヌシが祭祀を執り行う聖地として琴引山は位置づけられていたようです。

①琴引山(頓原から) ②琴引山(上来島から)

 現在、琴引山の山頂近くには琴弾山神社があり、大国主神と伊邪那美神が祀られていますが風土記の時代より以前から山自体を神、また神の宿る聖域として崇められていた特別な存在だったのかもしれません。後世、山岳仏教が盛んな折には四十八坊の寺が軒を連ね、一大修験場が存在したとも言われています。

 琴引山へは琴引フォレストパークスキー場にある登山道から登ることができます。およそ八合目には大神岩と呼ばれる巨石があり、重なり合ってできた隙間にはオオクニヌシの琴を思わせる方形の石が残っています。また山頂近くの琴弾山神社の前には、まるで何かによって断ち割られたような巨岩がそそり立ち、古代人が神の聖域として畏怖の念を抱いたとするなら、さもありなんといった荘厳な景色が広がっています。

③琴弾山神社では毎年秋(9月23日)に例祭が行われ、子どもの疳の虫封じに御利益があるとして県内外から子どもを連れたたくさんの参拝者があります。

 登山道には弦の清水・十畳岩、また1014mの山頂には戦国武将の尼子経久が戦勝を祈ったとされる石塔、別の登山ルートには穴神琴弾岩という石窟などもあり、およそ1時間の道のりは登山者を退屈させないでしょう。

 また、飯南町野萱(琴麓)、飯南町小田(県民の森)、飯南町敷波からも登山道が整備されています。

④琴引山神社 ⑤大神岩 ⑥琴引山神社から三瓶山を望む

 

草峠(くさんだわ)

「備後國の惠宗郡の堺なる荒鹿坂に通ふは、三十九里二百歩なり。径、常にせきあり。三次郡の堺なる三坂に通ふは、八十一里なり。径、常にせきあり。波多径・須佐径・志都美径、以上の三つの径は、常にはせきなし。但、政ある時にあたりて、權に置くのみ。並びに、備後國に通ふなり。」

 荒鹿坂は飯南町と広島県庄原市高野町との境にある峠をさし、現在は草峠と呼ばれています。草峠は琴引山(標高1014m)と大万木山(標高1218m)の中間に位置していて941mの標高があります。風土記の時代には関が置かれ、備後国と出雲国を行き来する人を検査していました。古代から飯南と高野は結びつきが強かった地域です。中世には多賀山氏(蔀山城-高野町)の分家である花栗氏が飯南町(花栗城-飯南町花栗)にあり、草峠を武士が行き来したものと思われます。

 江戸時代になると草峠の道は交易の道として栄え、日本海の海産物がこの道を通って高野へ運ばれました。特に腐りにくかったサメは生で山間部にもたらされ、当時唯一口にできた刺身としてたいへん喜ばれました。この地方では現代でもサメのことを古代同様にワニといいますが、海産物が運ばれた道を「ワニの道」と呼んでいます。輸送技術が発達し、どんな魚でも新鮮なうちに食することができるようになった現代ですが、この地域では秋のお祭りやお正月にはワニの刺身は欠かせないものとしてその食文化が受け継がれています。

 荒鹿坂のほかにも、現在の三次市布野町へ越える「三坂」は赤名峠で、こちらにも常時、関が置かれていました。「波多径・須佐径・志都美径」は風土記時代の神門郡から来嶋郡を経由して備後国へ通じる道だったと考えられています。志都美径は現在の飯南町志津見にあり、臨時に置かれた関は志津見にある字名門周辺と推定されています。

① ②

草峠からの展望                 草峠へ続く九十九折れの道

多加山

「三屋川 源は郡家の正東一十五里なる多加山より出で、北に流れて斐伊の川に入る。年魚あり。」

 『出雲国風土記』が編纂された時代、大万木山(おおよろぎさん)は多加山と呼ばれていました。大万木山は、昔からたくさんの呼び名を持っています。出雲平野の辺りから見るとまるで巨大な堤防のように見えるため「出雲土手山」、七日七晩迷い続け、行き倒れになった人の竹の杖から竹が生えたという伝説から「七日迷い山」「竹の子山」などとも呼ばれています。山が、ゆらゆら大きく揺らいでいたため「大ゆるぎやま」と呼び、これが現在の「大万木山」という呼び名のもととなったといわれています。

 大万木山は島根県と広島県の県境にそびえる標高1218m、島根県第6の高峰です。頂上付近にはブナの原生林があり、幹周りが3メートルを越える大木も残っています。そのほか樹齢100年を越える広葉樹林、サンカヨウ・イワカガミ・マイズルソウなどの貴重な植物また、冬には樹氷を見ることができ、春夏秋冬それぞれにすばらしい自然と触れ合うことができます。

 大万木山は島根県県民の森〈自然体験ゾーン〉として整備されています。遊歩道や避難小屋、展望施設などが設置され、快適に登山を楽しむことができます。飯南町からの主な登山ルートは次の通りです。

・滝見コース
 門坂駐車場からのコース。このコースは、明治時代の頃までは出雲と備後を結ぶ重要な交易ルートでした。石見の海岸部からはこの道を通って高野山(庄原市高野町)まで海産物が運ばれていました。このルートを「門坂越し」といい、途中には峠越えの安全を祈った地蔵尊が祀られています。

・渓谷コース
 位出谷駐車場からのコース。コース途中にはサワグルミ・ハリギリなどからなる「静かの森」と呼ばれる大万木山で一番林相の美しいポイントがあります。

・権現コース
 山頂まで最短ですが一番急峻なコースです。途中には、大万木山が揺れ動くのを鎮めるためにお迎えしたという武智権現社が巨岩の中に祀られています。また山頂付近にはたくさんの枝わかれが特徴的な、通称「たこブナ」と呼ばれるブナの古木を見ることができます。

① ② ③

門坂峠地蔵尊          ブナ林             大万木山(左)と草峠連峰

志々乃村神社

「志志乃村社」
 出雲国風土記には当時の出雲国飯石郡に21社の神社があったと記され、飯南町にはただ1社、志志乃村社の掲載があります。志志乃村社は現在の飯南町獅子にあり奥津島比売命(おきつしまひめのみこと)を祭神とし、明治時代までは剣大明神とも呼ばれて崇敬が厚かったといわれています。

 明治40年に現在の社地である飯南町八神へ移されています。志志乃村神社には八神地区の由来となったといわれる八柱の神を併せてお祀りしています。また、旧社地には石碑が建てられており、八神の志志乃村神社から祭神がお里帰りする御神幸の神事が五年ごとに行われています。

① ② ③

神戸川

「神門川。源は飯石郡の琴引山より出でて北に流れ、即ち来嶋・波多・須佐の三郷を経て、神門郡の餘戸里門立村に出で、即ち神戸・朝山・古志等の三郷を経、西に流れて水海に入る。則ち年魚・鮭・麻須・伊具比あり。」

 神門川とは現在の神戸川です。風土記の時代、神戸川の水源は琴引山と考えられていたようです。江戸時代につくられた『往古簸川西流絵図』にも琴引山を源流とする記述が見られ、その認識は受け継がれていました。明治時代、史学者であった重野安繹は神戸川に「琴川」という別名をつけました。神戸川下流部の地域では、現在でも神戸川への愛着を込めてこの川を琴川と呼んでいます。

 昭和62年には飯南町大万木山麓の住民が中心となり、当時の頓原町と建設省の協力により大万木山から発する水源に「神戸川北方水源」という標柱が立てられました。続いて平成6年には飯南町女亀山の水源には当時の赤来町によって「神戸川源流」の標柱が建てられています。

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女亀山の源流石碑        大万木山から流れる神戸川    日本海へ注ぐ神戸川

 

三瓶山

「(前略)『国来、国来』と引き来縫へる国は、去豆の折絶よりして、八穂米支豆支の御埼なり。かくて堅め立てし加志は石見国と出雲国との堺なる、名は佐比売山、是なり。亦、持ち引ける綱は、薗の長濱、是なり。(後略)」

 これは八束水臣津野命が「国引き」を行い、出雲国の国土を広げたという有名な「国引き神話」の一節です。この神話では、新羅国や古志(北陸地方)から4つの地塊を引き寄せ、縫い合わせて現在の島根半島をつくったことが語られ、「国引き」の時に用いた綱が薗の長濱(園の長浜)と夜見嶋(弓ヶ浜半島)であり、杭は佐比売山(三瓶山)と火神岳(大山)であったとされています。

 島根半島は実際に4つの山塊からなっていること、太古の昔は陸続きではなく縄文海退や斐伊川、神戸川の堆積作用によって日本列島とつながったこと、また新羅国や古志などの遠くの地域が登場すること、さらには三瓶山・大山、園の長浜・弓ヶ浜半島の位置関係や地形を把握していたことなどを考え合わせる時、この神話のスケールの大きさと古代の人々の地理感覚には驚かずにはいられません。

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                 三瓶山                     園の長浜と三瓶山