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瀬戸山城周辺の史跡(古墓等)

ページID:0005553 更新日:2022年10月1日更新 印刷ページ表示

史跡等

瀬戸山城跡

 衣掛(きぬかけ)城とも藤釣(ふじつる)城とも呼ばれている瀬戸山城は標高683メートルの赤名市街を一望できる山地に築かれています。築城は14世紀後半とされ、石見佐波氏の常連が赤穴荘を支配して赤穴氏を名乗ってこれに着手し、歴代の赤穴氏の居城となったと伝えられています。

 出雲・石見・備後国の境界に位置し、交通の要所、また出雲国への入り口として重要視されたびたび戦場となりました。特に1542年(天正11)に大内義隆率いる尼子遠征軍が攻め込んだ時は主戦場となり、死闘が繰り広げられました。大内勢による度重なる攻撃を退け、雲南随一の堅城とうたわれました。

①瀬戸山城跡

瀬戸山城主郭跡

 現在、瀬戸山城は遊歩道が整備されていて、標高683メートル(比高190メートル)の山頂主郭部(本丸)を見学することが出来ます。
 山頂へはおよそ30~40分で到着しますが、途中には毛利氏、堀尾氏の改修を受けた近世初頭の総石垣の城郭の姿や主郭から連なる第2郭(二の丸)、第3郭(三の丸)なども見ることができます。また、主郭部南側の入り口には敷石が残存し、城門が建てられていたと考えられています。

 主郭からは国道54号、赤名市街が一望でき、左方には毛利氏が陣を置いたと伝えられる元山が対峙しています。
 瀬戸山城西側の山麓にある現在の赤名小学校付近は家臣らの居館跡だったと考えられています。この付近は「殿町」と呼ばれ、瀬戸山城の最終改修者であった堀尾氏による近世城下町の痕跡を残しています。

① ② ③

瀬戸山城本丸跡から赤名市街を望む  二の丸跡         本丸付近の石垣

元山(もとやま)城跡

 標高594メートルの元山は、赤穴氏の居城である瀬戸山城の正面に位置しています。1542年(天文11)の大内氏による出雲攻略で瀬戸山城を囲んだ際、毛利元就が陣を置いたと伝えられています。
 調査によると主郭と考えられる平坦地には瀬戸山城方向に土塁と堀切が確認されています。

①​瀬戸山城跡(左)と元山城跡(右)

熊谷直続(くまがいなおつぐ)墓

 1541年(天文10)、尼子晴久による安芸攻めが失敗に終わると、翌年の1542年(天文11)、大内義隆は富田城の尼子氏を攻略すべく出雲遠征を行いました。大内義隆を大将とし、陶氏、毛利氏、備後、石見国の諸将をあわせた大軍は石見国出羽の二つ山城に陣を構え、尼子氏旗下の赤穴氏が守る瀬戸山城攻撃の準備を整えました。

 瀬戸山城攻めの幕は1542年(天文11)6月7日、大内方の熊谷直続によって切って落とされました。

 直続は先功を立てようと手勢三百を引きつれ火を放ちながら城下に現れましたが、城門を開いて撃って出た城主赤穴光清や田中三郎左衛門、吾郷大炊介により討ち取られました。
 熊谷直続を葬ったとされる墓は瀬戸山城近くの高地に残っています。

①​熊谷直続墓

吾郷大炊介(あごうおおいのすけ)墓

 1542年(天文11)、大内義隆は、山陰を中心に勢力を誇っていた尼子氏攻略のため自ら大軍を率いて、出雲遠征を行いました。尼子十旗とも呼ばれ尼子氏の忠臣であった赤穴氏の守る瀬戸山城は、出雲国の玄関口にあり、大内勢進軍の通り道に位置していました。 大内軍四万に対し、瀬戸山城を守る赤穴光清の軍勢は、尼子氏からの加勢を含め二千だったと軍記物は伝えています。

 赤穴勢は、熊谷直続との緒戦の後も出羽助盛、本庄経光ら大内方の諸将の攻撃を受けますが、地の利を得た巧みな戦術と勇猛な戦いぶりによってことごとくこれを退けました。 7月27日、ついに陶隆房、吉川興経らを中心とする大内勢の総攻撃がはじまりました。赤穴氏の重臣であった吾郷大炊介は84歳ながらも奮戦し、敵を何度も押し戻しましたが、最後は力尽き、自害しました。
墓碑には、自害の際し、城主光清へ差し上げてほしいと詠んだ辞世の一首

「梓弓は 十字あまりに 引き詰めて 射ては帰らぬ 道にこそ行け」 が刻まれています。

①吾郷大炊介武利墓

城番山中織部墓

 関ヶ原の戦い後、出雲へ入封した堀尾氏は瀬戸山城に城番を派遣し、国境の地を監守させました。1634年(寛永11)、堀尾氏に代わった京極忠高も同様に城番を派遣しています。近江国高鹿郡山中の里、山中七郎左衛門入道の九代の末葉といわれる山中織部頭入道休雲がその人で、山中寺の墓地に墓が残っています。

①​城番山中織部墓

城番松田左近将監吉久墓

 関ヶ原の戦の後、東軍の武将堀尾吉晴は月山富田城へ入り、出雲国24万石を統治することとなりました。毛利氏によって赤穴の所領を安堵されていた赤穴氏(中川氏)も、毛利氏に従って長州に移りました。

 堀尾氏は出雲国へ入封後、瀬戸山城に大規模な改修を加え、総石垣の近世城郭を構築しています。国境の要衝の城として兵を置いていたことも想像されます。1615年(元和1)、武家諸法度において一国一城令が発令され、諸国の大名は居城を除き、そのほか領国内の城をすべて破却することとなりました。瀬戸山城もその例外ではなかったと考えられますが、堀尾氏は元白髪城主で後に芸州広島藩の客分家老だったと伝えられる松田左近将監吉久を瀬戸山城城番として派遣しました。三国が接する要衝の地にある城として重要視し、国境の監守にあたっていたと考えられます。
 松田左近将監吉久の墓は、現在瀬戸山城麓の御下にあります。

①​城番松田左近将監吉久墓