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瀬戸山城周辺の史跡(寺院等)

ページID:0005554 更新日:2022年10月1日更新 印刷ページ表示

寺院等

大光寺

 大光寺は飯南町上赤名向谷にあり、明窓院の三代目住職が隠居後、創立したと伝えられています。瀬戸山城主累代の墓所であり、高さおよそ1.6メートル、赤穴氏の祖といわれる大光院殿の石塔をはじめ、十数基の宝篋印塔が残っています。

 大光寺には夫と一緒に葬ってもらえず悲しんでいた妻の霊をあわれみ、一つのお墓に埋葬して弔った和尚さん言い伝えがあり、感謝した妻の恩返しとして「頭の痛い病」を直してくれるご利益があるとして、信仰されています。

①​瀬戸山城主の宝篋印塔

明晴山 西蔵寺

 西蔵寺は親鸞聖人に西国への布教を託されたという明上上人を開基とする浄土真宗の古刹です。
寺伝によれば、松笠村(雲南市掛合町松笠)の真言宗西蔵寺住職西園は出雲大社へ参詣途中の明光上人に会い、帰依し改宗して住職を譲り、上人と師資の関係を結びました。後に西園は入間村出来山(雲南市掛合町入間)に明光を開基とする真宗の寺院を建立し自ら第2世を継いだと伝えられています。この後、下赤名福田(飯南町下赤名)に移り、現在の地に移転したのは江戸時代の初めごろといわれています。

 第19世教忍は本山使僧、第25世哲勝は本願寺学階勧学親座一席となり浄土真宗の布教・興隆に多大な功績を残しています。
墓地には、広島城主福島正則の所領没収に際し、流浪の身となった家老尾関石見守正勝の墓も残っています。

① ② ③

西蔵寺                            源哲勝勧学碑

雲竜山 蓮光寺

 浄土真宗の寺院である蓮光寺は、寺伝によると、第1世である明雲が下赤名千束(飯南町下赤名)に一宇の僧坊を建立したのが始まりとされています。元和年中(1615~1623)、第5世明覚の代には堂宇を「赤名町上御番所下」へ移転し、後の第17世楽聴の代に現在地へ移転したと伝えられています。
 蓮光寺が建つ石垣は戦国時代、大内軍が瀬戸山城を攻めた際、守備する赤穴勢によって投げ落とされた石弾によって造られているという伝承が残っています。

① ②

蓮光寺                     蓮光寺の石垣

西休山 山中寺

 寺伝によると開祖は尼子新宮党の遺児勝久を擁して尼子復興戦を戦った山中鹿介幸盛とされ、1574年(天正2)に鹿介の守本尊である金毘羅大権現の木像を安置したのが始まりとされています。
 また同寺には、京極氏の家臣で瀬戸山城番として派遣されていた山中織部頭昇誉休雲を中興の祖とする記録があり、墓地には山中織部の墓が残っています。

① ②

山中寺

栄昌山 妙法寺

 妙法寺は法華宗の寺院で、瀬戸山城番として派遣されていた松田左近将監吉久が備後国から日言上人を要請して開基としたのを始まりとしています。
 大正8年5月7日の赤名大火で建物がすべて全焼し、大正8年8月庫裏再建、大正11年妙見堂再建、大正15年本堂再建の記録が残っています。

①​妙法寺

小瀧山 安楽寺

 安楽寺は浄土真宗の寺院で、今からおよそ600年前の応永年間(1394~1410)に開祖南部氏が備後国山南(広島県福山市沼隈町)の光照寺で得度出家後、備後国櫃田荘(広島県三次市君田町櫃田)に浄土真宗の寺院を開いたのが始まりとされています。
 永禄年間(1558~1569)には安楽寺坊守の父であった瀬戸山城城主赤穴美作守の懇望により、下赤名村福田(飯南町下赤名)へ移転したと伝えられています。

 現在の場所へは、江戸幕府の開府後、堀尾氏による瀬戸山城番の派遣、一国一城令などを経て「古市」に代わる赤名市街が形成されるのに併せて移転したのではないかと考えられています。今からおよそ380年前のことです。

① ②

安楽寺

良田山 明窓院

 明窓院は曹洞宗の寺院で開基を瀬戸山城主赤穴右京亮幸清の室、明窓院殿興隆妙顕大姉と伝えています。
 下赤名村明窓院(飯南町下赤名)にあった堂宇が元禄年間(1688~1703)に火災にあい、第7世住職気格天秀大和尚が現在の場所へ移転建立したといわれています。

  江戸時代、広瀬藩領となってからは奥飯石24ヵ村の祈願所とされ藩主から祈願料が下附されていました。

① ②

明窓院