ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

本文

銀山街道にまつわる史跡

ページID:0006088 更新日:2023年1月12日更新 印刷ページ表示

銀山街道にまつわる史跡

石見銀山街道とは

・石見銀山
 石見銀山は、『銀山旧記』によると1526年(大永6)に博多の豪商神屋寿禎によって本格的に開発が始められたとされる鉱山です。その後、大正時代に閉山するまでのおよそ400年間にわたって採掘され、大内氏・尼子氏・毛利氏などの戦国大名や徳川幕府の重要な財源になったといわれています。石見銀山の名は海外の古文書や古地図に登場し、アジア諸国とヨーロッパ諸国を交易で結ぶ役割の一端を担っていたと考えられています。17世紀には世界の銀の産出量の三分の一を日本が占めていたと言われていますが、その銀のそのほとんどを石見銀山が産出していたといわれています。

・銀山街道
 神屋寿禎による開発が始まってのち、当初、石見銀山から産出された銀は、鉱石のまま日本海の銀の積み出し港だった仁摩町馬路の鞆ケ浦から博多へ船で送られていたようです。戦国時代、石見銀山が毛利氏の支配下に入ると毛利元就は温泉津を拠点に銀山開発を行うようになりました。温泉津は銀の積出港となるとともに、銀山へ物資を供給する基地ともなりました。こうして温泉津から銀山までの間に銀と鉱山開発を支える物資の行き交う道が開拓・整備されました。現在、私たちが銀山街道と呼ぶ道の最初のものです。1600年(慶長5)に関ヶ原の戦いが終わると石見銀山は直ちに徳川幕府の支配下に入れられ、初代銀山奉行大久保十兵衛長安のもと、積極的な開発が進められて、多くの銀が産出されました。
  1607~1608年ごろ以後、銀山経営の掌握という目的を達するため、銀の輸送は海上輸送から天候に左右されず比較的安全な陸路輸送に切り替えられたといわれています。こうして新たに石見銀山から広島県尾道市までの街道が整備されました。大森から粕淵、九日市、酒谷、赤名をへて尾道への街道は江戸時代を通じて銀の輸送路となり銀山街道と呼ばれるようになりました。

・銀の荷継
 石見銀山で産出し、精錬された銀は十貫目(40kgあまり)入りの木箱に収められ、菰包みにしたものを二箱ずつ馬に負わせ、その上に一尺四方の葵の小旗を立て銀山街道を通って尾道まで運ばれました。江戸時代には街道沿いに宿場が置かれ、徳川幕府公用の荷物を次の宿場まで送り届ける役目がありました。また、その宿場の近郷の村々にはこれを補助するために無償で労働力や馬を提供する「助郷」という役目が課せられていました。銀山街道沿いの宿場や村人も、この役目に従い石見銀山の銀を尾道まで、次々に荷継して行かなければなりませんでした。銀を荷継するのに一つの宿場が用意した馬が250頭、人夫が400人という記録も残っています。人馬を提供しなければならない助郷の村々は、耕作もままならず経済的に苦境に陥るなど、大変な負担を強いられました。また、大森から粕淵に抜ける「やなしお道」や広島県境の赤名峠は街道の難所中の難所といわれ、助郷の村人を苦しめたといわれています。

1​石見銀山産出の銀で鋳造された「御取納丁銀」 2​​龍源寺間歩

銀山街道

下赤名の一里塚跡

 銀山街道が天領を出て当時の広瀬藩領に入ってすぐのところに、一里塚がありました。一里塚には松が植えられており、この塚の傍にある民家を屋号「一里松」と呼んでいます。

 現在、この松は枯れてありませんが、松のあった場所には、代わりに栗の木が植えられ、一里塚跡の目印となっています。

1 2 3

  一里塚跡と銀山街道      一里塚の栗の木      下赤名の銀山街道

 

赤名川原

 大森銀山で採掘された銀は三泊四日の行程で尾道まで運ばれていました。大森を出発した銀荷継の一行は石見国九日市で一泊した後、次の日には赤名へ到着し銀を新しい馬に付け替えていました。銀の付け替えは「赤名川原」という場所で行われていました。

 「赤名川原」は赤名市街の中心部の中市からその西側を流れる神戸川を渡ったところにあったと考えられていますが、現在は国道54号や建物の敷地となっています。赤名川原で新しい馬に付け替えられた銀はここから布野宿(後に三次)まで赤名宿と助郷役の奥飯石の人々によって運搬されました。

1

銀山街道道標

 江戸時代の銀山街道と宍道・尾道街道が接する赤名宿(飯南町赤名市街)には石見銀山の道標が残っています。「左ハ石州さけ谷 大田 大もり五百らかん」「右ハとん原 まつ江 大やしろ一ばた 道」と記されています。安政三年(1856)に建てられたものです。

1​銀山街道道標

上赤名の一里塚跡

 上赤名瀬戸集落にある一里塚は「瀬戸の一里塚」と呼ばれています。この一里塚の傍らにある屋号「一里塚」というお宅の後ろには、松の切り株と一里塚の跡が残っています。 「瀬戸の一里塚」は松江城と広島城のちょうど中間地点に位置するとして街道を旅する人々の目印となったといわれています。

1一里松の跡 2​瀬戸の銀山街道

赤名峠

 赤名峠は、温泉津から尾道に至る銀山街道において、「降路坂」「やなしお道」とともに通行の難所として知られています。銀の荷継は農閑期である冬季に行われたため、赤名峠の銀山街道は積雪を伴い、この区間の輸送を担わされていた奥飯石21ヵ村の人々を苦しめました。1811年(文化8)、大森代官所に提出された「銀の荷継」の負担軽減を求める訴状には赤名峠を越えて銀を運ぶ村人たちの苦労が切々と語られています。

1