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銀山街道をたどって

ページID:0006100 更新日:2023年1月13日更新 印刷ページ表示

銀山街道をたどって

下赤名の一里塚~古市

 銀荷継の輸送隊は出雲国と石見国の国境にある「酒谷口番所」を通過し、当時の広瀬藩領下赤名村を進みました。現在の美郷町と飯南町の町境から県道を少し進んだところから左側に小道がありますがこれが当時の銀山街道で、分岐してすぐのところには一里塚の跡が残っています。数十年前まではここに松の木があったようで一里塚の目印になっていました。

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  下赤名の銀山街道
(県道から分岐する地点)

  この一里塚から中世の赤名の市街地があったとされる古市までのおよそ1kmの間は街道が当時とほとんど変わらない様子で残っています。また街道沿いに残る民家やお地蔵さんは銀山街道を人々が行き交った時代を思い起こさせます。

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   古市へ続く銀山街道        街道の野仏     江戸時代の面影を残す街道沿いの民家

古市~赤名宿

 古市は中世まで赤名の中心地があったとされる場所で、街道沿いにはかつての家並みを想像させる平坦地が続いています。銀山街道は、古市付近の古道を通過し、飯南町谷地区へつながる道路が分岐する地点あたりから現在の県道を進むルートだったと考えられています。古市を通過した銀の輸送隊一行は、中通、千束の集落をほぼ県道と重なって進み、国道54号を横切って神戸川にかかる松崎橋を渡り、赤名宿へ入って行きました。

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     古市付近の案内板             神戸川をわたって赤名宿へ

赤名宿

 赤名宿へ入った一行は神戸川のほとりにある「赤名川原」という場所で荷継の銀を新しい馬につけかえました。ここからの銀の輸送は、次の荷継地の布野宿(のちに三次)まで、赤名宿と助郷役の人々の役目となります。

 赤名の町は、慶長年間にそれまで下赤名古市にあった町並みを現在の市街地のある瀬戸山城の麓に移転したのが始まりとされています。以降、石見国・備後国に隣接し、宍道尾道街道、銀山街道、出羽街道などが合流する交通の要衝として宿場町が形成され発展しました。

1赤名川原遠景

 

 道しるべ

 銀山街道は中世には赤名の市街が形成されていた古市を通って赤名宿の入り口で宍道尾道街道と合流します。神戸川にかかる松崎橋を渡ったところ、銀山街道と宍道尾道街道が交差する地点に道しるべの石柱が残っていて当時の街道の様子をしのばせます。

 「左ハ石州さけ谷 大田 大もり五百らかん」「右ハとん原 まつ江 大やしろ一ばた」
と記され、出雲国や石見国へ向かう人々に道を示しています。

2​赤名宿の道しるべ

 

 赤名宿の町並み

 赤名の街はそれまであった古市の街が火災により全焼し、これを契機に現時の場所に移転したものです。赤名宿にある城山愛宕神社には次のような記録が残っています。
「赤名宿しばしば火災にかかり町民の惨苦云うべからず。即ち識者の指示に従い赤名宿人戸併列の形状を三段段形の川の字形にし・・・」

 街の移転に際して街が全焼した教訓を活かし、町家の計画的な配置によって火災の延焼を阻むことを意図して赤名宿の町並みはつくられたようです。現在でも段形の街路や川の字状に三列に並ぶ家並みを見ることができ当時の様子をよく残しています。

3​赤名宿の段形街路

赤名宿~瀬戸の一里塚

 赤名の宿場を出てしばらくすると銀山街道は国道54号東側の山手を進みます。このあたりは現在の国道と離れているため当時の街道が残っており、水田にはさまれた道を歩くことができます。このあたりの集落を瀬戸といい、銀山街道を人々が往来していた頃には一里塚の松があり、これを「瀬戸の一里塚松」と呼んでいました。一里塚という屋号の塚本さん宅裏には当時の一里塚の松の子孫にあたる松の木の切り株が残っています。「瀬戸の一里塚松」は松江城からも広島城からも二十二里の距離があるとされ、一里塚の中でも、旅人にとってとりわけ印象深いものだったと言われています。

 銀山街道は国道54号と離合しながら、赤名峠のふもとの北野集落へ向かいます。

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    瀬戸の銀山街道         一里松の跡         街道のショウブ

 

赤名峠

 瀬戸の一里塚松を過ぎた銀山街道は高林坊(飯南町上赤名)の前で国道54号を西側へ横切り赤名峠のふもとの北野集落へ入ります。一部、現在の国道54号と重なる集落内の街道をすすみ、いよいよ赤名峠越えにかかります。街道は野仏のあるあたりから次第に急となり、峠の入り口を思わせる坂道となります。この道は国道敷設と赤名トンネルの掘削工事によって、一部とぎれますが、トンネル入口の少し手前の山側に街道の痕跡が残っており、そこから標高680mの赤名峠を目指すことが可能です。

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北野集落(左手の道が赤名峠へ続く)   街道の野仏            赤名峠

銀山街道の難所
 赤名峠は銀山街道の中では最高所に位置しています。石見銀山から尾道まで御用銀を運ぶ銀荷継は旧暦の11月にかけて行われたため赤名峠を通過する頃には積雪も多く、険しい峠道は助郷制度によって借り出された農民を苦めました。1811年(文化8)に大森代官所あてに助郷の軽減を求めて出された訴状に赤名峠を越える荷継の様子が記されています。

 「勿論余国無類之難所赤名峠と申すを風雪烈敷時節柄人馬共進兼(中略)老人幼年之者行悩倒伏候而して声立泣わめき付添之宿村役人共彼是すかし宥め漸夜四ツ時前後三次着仕」

 雪の中を大変な難儀をして三次まで銀を運んだ様子がうかがえます。世界の銀の産出量の三分の一を占めたといわれる石見銀ですが、歴史の表舞台の陰にはたくさんの人々の苦労があったことを忘れてはいけないようです。

赤名峠の歴史
 『出雲国風土記』にその名を残す赤名峠は出雲国・備後国の境に位置し、古くから山陽から山陰へ、また山陰から山陽への玄関口としての役割を果たして来ました。江戸時代においては宍道・尾道街道、銀山街道の難所としても知られていました。
昭和12年、歌人で半生を柿本人麻呂研究に捧げた斉藤茂吉は人麻呂終焉の地「鴨山」を赤名峠からほど近い島根県美郷町湯抱に比定しています。
 赤名峠を何度も越えたであろう万葉歌人柿本人麻呂に思いを巡らせアララギ派の歌人斉藤茂吉と中村憲吉は次の歌を残しています。
「人麿のことをおもひて眠られず 赤名越えつゝ行きしおもほゆ」(斉藤茂吉)
「君を送りて国のさかひの山越えの 深き峡路にわかれけるかも」(中村憲吉)

 1811年(文化8)には伊能忠敬が幕府の天文方として当地を測量に訪れています。大森から九日市、酒谷と銀山街道を進んだ一行は2月29日に赤名宿の本陣肥後屋へ宿泊し、翌日、赤名峠を越えて行きました。

 明治時代に入り、1885年(明治18)からはじまる「三大道路」改修は道幅を三間とし、峠などでは、勾配が緩やかで荷車の通れる道への改修が行われました。赤名峠でも明治18年から明治22年にかけて改修工事が行われ現在「明治の道」と呼ばれる赤名峠越えの新道が完成しました。1959年(昭和34)には赤名峠を舞台にした山代巴原作の「荷車の歌」と題する映画が製作されています。明治中期から昭和初期の山村の暮らしの中で封建的な因習を乗り越え、赤名峠で荷車を引き続けた主人公セキの生き方は、農村女性の間で大きな共感を呼びました。

 こうして「明治の道」は昭和39年に赤名トンネルが開通するまでの75年間にわたって陰陽の大動脈としての役割を果たしました。
 現在、赤名峠へは明治の道を通って車で行くことができます。また、銀の荷継の一行が通った近世の銀山街道は昭和の国道工事などによって途切れていますが、赤名峠までの道筋をたどる事ができます。

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  赤名峠へ続く明治の道      赤名峠に咲く野の花      峠付近の石垣