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板屋3遺跡(飯南町志津見)から出土したこの土器は、今からおよそ一万年前の土器であることがわかっています。縄文時代草創期末という時代に位置づけられ、現在見つかっている土器の中では島根県で一番古いものです。
このほか三瓶山麓の縄文時代遺跡からは縄文時代の土器が数多く出土しています。
表裏条痕文土器(約1万年前:板屋3遺跡)
(写真提供:島根県埋蔵文化財調査センター)
押型文土器(約9000年~7000年前:板屋3遺跡・下山遺跡)
(写真提供:島根県埋蔵文化財調査センター)
磨消縄文土器(約4000年前:下山遺跡・貝谷遺跡)
(写真提供:島根県埋蔵文化財調査センター)
下山遺跡(飯南町角井)から出土したこの土偶は東北地方でつくられ、この地域に持ち込まれた可能性が高いといわれています。胴体の部分が出土しましたが、もとは両脚を折り曲げて座り、腕を組んでいたものと思われます。(写真後ろが復元模型)東北地方との交流を示す貴重な資料となっています。
この土偶は島根県埋蔵文化財調査センターに収蔵されています。
(写真提供:島根県埋蔵文化財調査センター)
板屋3遺跡(飯南町志津見)から出土した縄文時代晩期(およそ3000年前)の土器からシコクビエのプラントオパールが検出されました。弥生時代を待たずにシコクビエなどの穀物栽培が始められていたのではないかと考えられています。
このほかに稲モミの跡のついた縄文土器や、イネ、キビのプラントオパールなども検出され、縄文時代の早い時期からの穀物栽培をうかがわせる資料として注目されています。
イネのプラントオパール
(板屋3遺跡 縄文時代早期~前期)
稲モミの圧痕が残る縄文土器
(板屋3遺跡 縄文時代晩期後葉)
古墳時代の終わりごろになると、神戸川上流部であるこの地域でも古墳が造られるようになりました。古墳の周辺に営まれた集落の首長らが葬られたものと考えられています。
713年(和銅6)に出された風土記編纂の官命を受け、出雲国では733年(天平5)に『出雲国風土記』が完成しました。『出雲国風土記』は全国で唯一、完全な形で現代に伝わっているとされ、当時の郡や郷の名称、山や川の由来や古老の言い伝えなどを知ることができます。
志志乃村社・琴引山・荒鹿(草峠)坂・多加山(大万木山)・神門川・石次野・野見野・木見野
『出雲国風土記』(日御碕神社本)
志志乃村社、琴引山の記述がみえる。
(写真提供:古代出雲歴史博物館)
赤穴八幡宮の社殿によると770年(宝亀元年)に現地に社殿を建立して松尾神社と称したと伝えています。同社を中心とした地域に伝わる「丹塗箭神話」は松尾神社創建に関わる伝承として語り継がれています。
箭降森遠景
飯南町谷の程原地区には平家の武将の奥方が身を隠したという伝説があります。その奥方は平教経(平清盛の弟である教盛の次男)の子を出産し、その子は能登守程原入道教本、または門脇教本と名乗り、程原の地に長徳寺を創設したと伝えられています。
鎌倉時代の1196年(建久7)に源頼朝は家臣の田槙安房守に社地を選定させ、1207年(建永2)に出雲国守護佐々木義清をして神殿落成させたと伝えられています。また、頼朝は鎌倉鶴岡大蔵山の朴の木を彫刻して制作した神像八体うち一体を由來八幡宮へ奉納し、出雲国八社八幡の第四社として鎮祭したといわれています。
鎌倉時代末の1326年(嘉暦元年)、当時、赤穴庄の地頭であった紀季実によって八幡三神像が奉納されました。山城国の大仏師鏡覚によって制作されたこれらの神像は神像史のみならず美術史上においても貴重なものといわれています。
息長足姫 大鞆和気命 比売神