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広報いーなん5月号「ぶらり飯南探訪」クイズ解説
広報「いーなん」5月号の特集「ぶらり飯南探訪」。
まちのあちらこちらに残る史跡や文化財を紹介しています。
ぶらり飯南探訪 クイズ「これ、なーんだ?」解説
見慣れたまちの中に潜む、先人たちの暮らしの痕跡。後世に伝えたかったこと。
あなたはいくつご存じですか?
クイズで紹介した史跡等を詳しく解説します。
1 由來八幡宮 狛犬
■由來八幡宮(頓原)
由來八幡宮(ゆきはちまんぐう)は飯南町頓原に所在し、主祭神として誉田別皇命(ほんだわけのみこと)、足中彦皇命(あしなかひこのみこと)、気長足姫皇命(おきながたらしひめのみこと)を祀っています。
源頼朝は鎌倉幕府開府後、鎌倉鶴岡大蔵山のホウの木を使って彫刻した神像をご神体とし、出雲国に八社の八幡宮を祀ったとされ、由來八幡宮はその第四社といわれています。社伝は、源頼朝の命を受けた田槙安房守が1196年(建久7)に社地を選定し、同じく1207年(建永2)、出雲国守護職佐々木義清によって神殿落成が行われたと伝えています。
由來八幡宮には「注連下ろし祭」から始まり、「姫の飯(ひめのえ)神事」「頭渡し神事」にいたる一連の特殊な例祭行事が伝承されており、「由來八幡宮の頭屋祭行事」として島根県無形民俗文化財に指定されています。(引用:「飯南町の歴史と文化」より)
■狛犬
狛犬は八幡宮の随神門の内部に納められており、この変わった形の狛犬は全国にも八重山神社と由來八幡宮にしか存在していないと言われています。
2 程原入道(ほどわらにゅうどう)の墓
全国にはたくさんの平家落人伝説の地がありますが、飯南町谷の程原集落も平家にまつわる伝説の地として知られています。
程原には次のような伝説があります。
「平教経には教経の子を身ごもった奥方がいた。平家滅亡のおり、この奥方は源氏の追及を逃れ八人のお供の者と、中国山地を越え程原の地にたどり着いた。住人はこの姫を温かく迎え入れ、ゆうな(「他人にしゃべってはならない」の意)御前と呼び、かくまった。程なく御前は元気な男の子を産んだ。父の教経に似て豪傑な青年に育ち、能登守程原入道教本と名のった。その後、長徳寺を建立し、集落の発展に力を注ぎ、母とともに幸せに暮らしたという。」
程原集落は、塩谷川へ流れ込む程原川の最も上流にあります。程原川は塩谷川へ合流するまで狭い谷あいを流れるため、下流域に平坦地はなく、程原集落はまさに「隠れ里」といった雰囲気を持っています。現在でもこの集落には程原入道神社をはじめ遊那(有名)御前の墓、八人塚など、伝説にゆかりの場所がたくさん残り、伝説は地域の住民の方々によって語り継がれています。(引用:「飯南町の歴史と文化」より)
3 吉岡長太郎フィルム
現在のように映像技術が発達していない大正から昭和初期にかけて、記録映像の撮影や、文化の向上に尽力した吉岡長太郎さん(飯南町真木)。妻のサダ子さんと苦労を重ねて映写機や教育、娯楽フィルムを購入。当時は音声のない無声映画であったため、サダ子さんの機械操作に合わせて長太郎さんが語る夫婦二人三脚の上映スタイルで、飯南町内はもちろん、県内各地や鳥取県、広島県にまで上映に出かけました。
長太郎さんはパテ・ベビーという9.9mmフィルムカメラでふるさとの生活風景や行事などを撮影し、記録映画を製作しました。(引用:2014年「広報いーなん」(12月号)<外部リンク>より)
【吉岡長太郎フィルムの詳細(2014年「広報いーなん」12月号)<外部リンク>】
4 力猿(りきざる)
飯南町獅子と八神を結ぶ間の国道184号は神戸川と山裾を縫うようにして走っています。その山側のがけの上には「力猿」と呼ばれる石でできた像が置かれているのをご存知でしょうか?
明治の頃、山を削って道を造る際、この辺りは落石が治まらず工事が難航していました。そんな折、地元の那須竹松という人が、明眼寺(飯南町八神)から桧造りの猿に似た像を貰い受け、落石が続く岩の間に決死の覚悟で据え付けました。そうしたところ、岩の崩落は不思議となくなり、道路完成に至ったということです。(引用:「飯南町の歴史と文化」より)
5 古レール
「旧国鉄バス赤名駅」の駅舎支柱には、鉄道レールが使用されています。使用されているのは100年以上前にドイツやアメリカで製造された鉄道レールで、刻印が見てとれます。最も古いのは1902年ドイツのクルップ社製のもの。1907年の刻印があるのは、アメリカのカーネギー社製です。明治から大正にかけて輸入され、日本の近代化を支えた鉄道のレール。その姿を今も見ることができます。
6 祇園山城跡(ぎおんやまじょうし)
祇園山城跡は、旧頓原小学校跡、現在の頓原防災拠点施設(ドクターヘリポート)の裏山の祇園山にあります。
山頂付近を削平し平坦地を設け、平坦地と平坦地を深い堀切で区切っているのが特徴です。
祇園山は山陰と山陽を結ぶ街道や高野方面を見渡す場所に位置しており、戦国時代に設けられた砦跡、または、一時的な陣城
ではないかと考えられています。
7 烏田権兵衛(からすだごんべえ)の碑
「当世において珍しいほどの忠義の士である、彼のような人物が私の見方についてくれたならどれほど心強いだろう」・・・これは毛利元就が烏田権兵衛勝定について評した言葉です。
1562年、毛利元就は中国地方の制覇の総仕上げとして長年の宿敵であった尼子氏を討つべく大軍を出雲地方に差し向けました。尼子方であった多くの武将が毛利側に寝返り、尼子氏は風前のともし火といった状況になりつつありました。毛利の軍勢が瀬戸山城(飯南町赤名)に迫るなか、赤穴右京介(久清)の籠る城中では、40年来仕えて来た尼子方に味方するか否かの激論が交わされていました。今の状況で、毛利軍と戦っても利なく、毛利方への降伏に決しようとしていたその時、昂然として反論する二人の武将がいました。
「我々は古来、尼子家に仕え、禄を受け、我々の代に至るまで二心なく仕えている。今、たまたま石見の国が毛利に切り取られたからといって矛を逆さまにして毛利に降参することは武士の本意にあらず。」
烏田権兵衛と森田左衛門は尼子氏に忠義を尽くすべきだと主張し、とうとう「入日の尼子を見限り、日の出の毛利つくような臆病者に組することはできない。」として瀬戸山城を出て毛利軍に戦いを挑む選択をしました。(引用:「飯南町の歴史と文化」より)
8 下山土偶(しもやまどぐう)
下山遺跡(飯南町角井)から出土したこの土偶は東北地方でつくられ、この地域に持ち込まれた可能性が高いといわれています。胴体の部分が出土しましたが、もとは両脚を折り曲げて座り、腕を組んでいたものと思われます。この土偶の存在は、東北地方との交流を示す貴重な資料となっています。
この土偶は島根県埋蔵文化財調査センターに収蔵されています。(引用:「飯南町の歴史と文化」より)
9 銀山街道道しるべ
■銀山街道
平成19年に世界遺産に登録された「石見銀山遺跡」から銀を搬出した道を銀山街道と呼んでいます。飯南町には、江戸時代を通じて上納銀を運び出した銀山街道が、街道の宿場町「赤名宿」を中心に、およそ10km残っています。
■道しるべ
銀山街道は中世には赤名の市街が形成されていた古市を通って赤名宿の入り口で宍道尾道街道と合流します。神戸川にかかる松崎橋を渡ったところ、銀山街道と宍道尾道街道が交差する地点に道しるべの石柱が残っていて当時の街道の様子をしのばせます。
「左ハ石州さけ谷 大田 大もり五百らかん」「右ハとん原 まつ江 大やしろ一ばた」
と記され、出雲国や石見国へ向かう人々に道を示しています。(引用:「飯南町の歴史と文化」より)
10 水間氏塚(みずましづか)
頓原拠点複合施設の裏の水路脇に「水間氏塚」という自然石でつくられたおよそ1.5m石碑があります。
「水間さん」と呼ばれており、表面には「安永六町中水間氏塚、酉九月立之」と刻まれています。
子どもの夜尿症などにご利益があると言われ、ひと昔前までは、願をかけた方によってお供えされた鉄の鳥居がたくさん置かれていました。
現在も関係者の方々によって供養が行われています。
11 築立暗渠(つきたてあんきょ)
飯南町上区の小才田集落と都加賀の隠岐原集落を結ぶ峠を吹ヶ峠と呼んでいます。
吹ヶ峠を越す道は明治時代の道路改修の際に開通した国道で、荷車の通れる勾配の緩やかな道として造られました。山の斜面を幾たびも折り返して登る九十九折れの道は「頓原いろは坂」と呼ばれ、大正天皇が琴引山を眺められた場所と伝えられています。
頓原の市街から吹ヶ峠へ続く「明治の道」には道の側面を支える石垣がよく残っています。また「ツキタテ」と呼ばれる石づくりの橋は、外国人技師の設計により明治20年ごろに造られたものと伝えられ、水路部分に架かるアーチがとても見事です。(引用:「飯南町の歴史と文化」より)
12 八幡三神像(はちまんさんしんぞう)
三神像は1326年(嘉暦元年)に「大佛師山城國鏡覺」によって制作され、赤穴庄の地頭であった紀季實によって赤穴八幡宮へ奉納されたことが、八幡神坐像(中央)の胎内から発見された木札からわかっています。
鏡覺は、これらの神像の作風から平安時代後期以降、京都を中心に仏師の一派を築いた「院派」の流れを汲む人物ではないかと考えられています。この時代、中央の仏師の手による神像が地方に残ることは稀で、また制作された神像の年代・作者・結縁者が明らかになっている点でさらに貴重な事例であるといえます。これらのことから昭和34年に国の指定を受けています。(引用:「飯南町の歴史と文化」より)